母が、怒った時のようなきつい声を出した。でも、甲高くて震えてもいた。
母は姿勢を固めたまま決して後ろを振り向かなかった。
潮風の正体は涙だった。
テーブルの上で塩分を含んだ水溜りができているのが、窓から差し込む光の反射で分かった。
泣いている母を初めて見た。祖母が亡くなった時でさえ、目が潤んでいても涙をこぼすことはなかったのに。
悲しいことがあっても元気に振るまい、いつでも笑顔を絶やさなかった。
僕は、頭の中に重い石をつめこまれたようなショックを受けた。

「早く行きなさい」

母が早口で言った。息を吸いこんでやっとの思いで出した溜息のような声だった。
回覧版は、母が座っている椅子の後ろにあった。床の上で開き、お知らせの紙がめくれ上がっている。
僕は回覧を拾って走り去った。

隣家のチャイムを鳴らすとおばさんが出てきた。おばさんの脇からアンモニア臭がした。

「あらっ! ボクが来たの? お母さんは? 何かあったの?」

おばさんが好奇心を剥き出しにした目で僕を見つめた。飛び出た白目が多い。田んぼにある鳥避けのような、グルグルした目玉だった。
なぜこの人は、母の代わりに僕が回覧を持ってきたぐらいで、大事件があったかのように驚くのだろう?