「母は、風邪引いてまして……」

「あら、やだ! 熱は何度? 鼻水は? 咳は? 体の節々は痛くないの?」

「たいしたことないんで……僕、用事があるので帰ります」

「あら、残念だわっ!」

おばさんは僕から決して目を離さなかった。瞼も閉じなかった。
その気迫に負けて、僕も目をそらすことができなかった。大事件が家で起こっていることを見透かされているようだった。
僕は、玄関を後ずさって外に出れたことを確認すると、ゆっくり引き戸を閉めた。
戸が閉まるまで、おばさんは突っ立ったまま僕と目を合わせていた。

夕食の時間になると、か細い声でダイニングルームに呼ばれた。
食卓に茶碗が2皿しか置かれてなかった。いつもは3皿で、どんぶりのような茶碗の前には、父が座っているはずだった。

「お父さんは遅くなるから……」

母が下を向いて、箸で茶碗をつついた。赤ちゃんの握りこぶしほどしか御飯が入ってなかった。

「仕事が忙しいの?」

「そぅ……」

母はそれ以上口を開かなかった。いつもは点いているはずのテレビが消えていて静かだった。
時々皿と箸がチンと鳴る音が響いた。
夕食を食べ終えて風呂に入って布団に入っても父は帰って来なかった。
きっと出張なんだと思い、明日になったら帰ってくると信じて眠った。